1998台湾 元日本語教師として想うこと

台湾




1998台湾 元日本語教師として想うこと

1998年に初めて一人で海外旅行をしたのが台湾でした。
もう当時のものは何も残っていなくて、頭の中に残っている思い出(妄想かも)だけです。

今回は観光したことなどは置いといて、元日本語教師として想うことを書いてみました。

日本語教師なら、日本語教育の歴史において、日本の植民地時代の台湾のことを学ばれたかと思います。

教員6名が殺害された芝山厳事件や山口式直接法など覚えられたんじゃないでしょうか。

わたしは養成講座で台湾の日本語教育の歴史を学んだとき、1998年の台湾のことを思い出しました。

今から24年前の台湾では日本語教育の歴史を実感することができたのです。

それは、当時の元気なお年寄りたちでした。

わたしは台湾の南、屏東市にある林さんという70歳のおじいさんの家にゴールデンウィークの間、ホームステイさせてもらいました。

林さん家族や林さんのお友だちに毎日観光名所に連れてっていただき、美味しい料理をごちそうしてもらいました。

林さん夫婦やお友だちは、日本語がペラペラで林さんはともかくお友だちのほうは、ほぼほぼネイティブでした。

たしか当時のガイドブックにも「台湾で困ったら、お年寄りに話しかけよう」と書いてあったと思います。
そのくらい当時のお年寄りのみなさんは日本語が上手なんです。

台中での日本語教師時代、日本語学校の事務の女の子たちは、日本語が上手でしたし、日本語を話せる人にもたくさん出会いましたけど、ネイティブみたいに話す台湾人には1998年以来、出会ったことがありません。

日本が統治してたころの日本語教師って、すごく優秀だったんじゃないかなって思うんです。

日本語がネイティブなるってことは、先生は厳しく(スパルタ?かも)、当時の子どもたちは一生懸命勉強したんじゃないかって。

1998年の台湾では(日本だったから、日本語を話せるんでしょ)くらいにしか思っていませんでしたが、日本語教師になってみて、教えることの難しさが分かってからは、戦時中の日本語教師は今よりももっと優秀な人が多かったって思えるんです。

こんなエピソードがありました。
台北に遊びに行った帰りに高雄で途中下車して、ぶらぶら街を散策してたんです。
江さんという60代後半くらい人に声をかけられました。
江さんはタクシーの運転手でした。
ですがタクシーに乗ってほしいわけではなくて、ただ日本人と話したかったようです。
今なら台湾のいたるところで日本人が観光してますが、当時はまだ新幹線もなかったので、台北ならともかく高雄あたりでは、日本人に会うのは、珍しかったのかもしれません。

日本語でいろいろと話してるうちに、あまりにもネイティブなので、わたしが思わず「日本人と話してるみたい」と言ったら、江さんが急に泣き出しちゃったんです。

正直、ビックリしました!

「嬉しい」って、ポロポロ…

台湾のお年寄りに共通して感じたのは、子どものころに学んだ日本語を宝物のように大切に想っているんです。

戦時中の日本語教師の教え方に何か特別なものがあったのか。
もし特別なものがあったのなら、歴史として残ってるはず。

わたしの結論は
当時の日本語教師は「めっちゃ愛があった」

それしか思いつかない(汗)

1998年の台湾を振り返ってみました。

では、またねー

ぱんず

 




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